Tomo

超有名進学校→関西トップ私大→大手企業という絵に描いたようなアラサーリーマン。東京在住。 ありのまま思ったことを、僕の脳みその中を記録として書き留めます。金銭全く興味なし、困ってもない為、ゼロ忖度で、真実を本音だけを記載していきます。コメント等頂ける方は皆大事にします。

正しい事=正解ではない

 この前ツイッターであることが起きた。僕のツイッターはほぼこのブログ同様、僕だけが認知をしていて、たまにいいねが付くときがあるぐらい。そしていつものように好きな音楽とちょっとした文章と共に投稿した。もちろんいいねも何も起きない。数日後全く同じその音楽(マイナーな曲だ)を1000フォロワーぐらいいる人が音楽のリンクのみで投稿した。4いいねがついた。

 この事実から考えた事は、論理的に正しい事、正解であること、正論であること、は数学のように必ずしも正しいという事にはならないという事だ。上記の現象をいいねが付くことを正解として、正解であることがその音楽を投稿することだとしよう。僕は1000フォロワーをもつ人が言うよりも前に、その音楽の良さを投稿した。しかし、後にそれを何の説明もなく投稿したの方が評価=正解とされた。

 もちろんこんなことを言うと、そもそも認知されている母数の相違にすぎないという予定調和の思考を浮かべるだろうが僕はそういう事を言いたいのではない。

 世の中の全ては正しい、正論である、ことが正解とはなっていないという事だ。

 人は物事の正解不正解を、論理のみで判断してはいない、その発言者の持つ権威性によって判断している。

 会社の会議でも1年目が正しい正論を発言しても、部長の一声で誤った正解が会議の中心となるし、インディーズで明らかにポップシーンで活躍をしているイケメンバンドマンよりいい音楽を奏でているバンドも、世の中からは正解とされていない。明らかに質もデザインもかっこいいマイナーブランドが、offwhiteやらbalenciagaなるブランドに負けたりする。

 つまり、本当の意味での実力主義では世の中はない。力と力、正しいか正しくないか、いいか悪いか、という物差しで勝負できる世界は限りなく少なく、多くの場合はその発言者(ブランドであればそのブランド名)によって判断される。

 そうこの世の中を単純に正論や正しい力の証明=正解とはなっていない事を初から理解をした上で、発言権を得た上で、実力の証明をしていくのが鉄則となる。