想像力の欠落
ニュースで頻繁にテラハの花の件が取り沙汰されている。
先に既に僕は他人の事を批判するには相手と同じことをした経験がない場合にはその権利がないと述べた。
また今日は同時に想像力の欠落というテーマについても書き記したいと思った。
(僕はこういった事件から根本的な風化されない人としての哲学を残したい。)
人の中身の中で大事なものに僕は共感できる・する能力があると以前に述べた。これは相手の目になり、相手の中から自分を見るという事だ。
それを可能にするのは自分が今までの人生の中での経験からもしくは、その経験から想像をして相手に重ねるという行動をとる必要がある。この経験というものは年齢を重ねるに至って、時間に応じて獲得できるものだ。がしかしもう一方の想像力は鍛えていく必要がある能力だ。
子供の時、僕は人をよく蹴ったり、投げ飛ばしたりした。そして今度は投げ飛ばされたり、殴られたりした。僕の時代はネットというものが思春期の間には今のように大きくはなかったが、それでも授業中に隠れて手紙に悪口をかかれて回されたり、学外でこそこそと悪口を言われているようなそぶりだったり、とかそういった類の事は僕らの世代でも共通してある経験であろう。
端的に言えば、他人を傷つけるという経験をし、またその上で他人から傷つけられたという経験である。
この経験にプラスして想像力を働かせると、他人に対して意味のない、議論をして何か解を見つける為ではなく、ただ単に人を冒涜する為にコメントをするということに、何の生産性もなく、他人が傷つくという現象のみが発生し、加えてそれがその人にとってどういう感情を生むかは理解できるだろう。
あの心の中がもやもやして、周囲を常に気にして、何かいつも不安になるような、暗くもやついた精神状態だ。
人間はあらゆる経験を人生を重ねて積むことも大切だが、それと共に、経験不足により理解することができない相手への共感能力を、”想像力”という力でカバーする必要があると思う。
InstagramやTwitterその他SNS及びYoutube等、不特定多数の人と接することが、またその密度が、ネットが生まれてから歴史上最も濃くなっている今の時代の中で、そういった人としてのレベル、成熟度がより問われてきている時代になった。
昔と今を比べると、それがクラス単位か、全世界相手なのかと、規模間に違いがでては来たが根本は同じ。各個人の人としてのレベルが上がらなければならない。言い換えれば今はこの人のレベルが最も顕在化しやすい時代とも言える。そしてそれが低い。
もしかしたらこういった人としての価値という前に資本主義が大好きなお金やその他の優劣を決めるものが全てという世界になってしまったのか?
金持ちだろうが、勝ち組だろうが、なんだろうが関係ない、人としてのレベルはそんなものでは決まらない。
人として成熟しているかどうかが最も大事なんだ。