批判•批評をする権利
テラスハウスの花が亡くなった事件から考えたことがある。
それは何かに対して批判をしたり、批評をしたりする権利はそれを経験した人間、まあ言っても類似体験をした人間にしかその権利はないということだ。
例えば、大学にいっていない人が大学なんて行っても意味がないと言うことがあるが、それは大学に行ったことがないから想像でしかない。サラリーマンをしたことがない人が、いかなる企業に勤めている人に対して、なんでそんな企業で働いているのと批評をすることは想像でしかない。コロナはただの風邪と発言する人もその当人がコロナにかかったことがなければ説得力がない。
つまり、何かを批判•批評をする人はそれを体験した人以外いないのだ。今回の花の行動に対して批判をした人は本当に全員自分の大事なものを他人にめちゃくちゃにされた経験があったのだろうか?しかもそのめちゃくちゃにした人とずっと同居していた経験があった人達か?
もちろんテラスハウスというメディアに登場し、不特定多数の人にさらされることで、それを見た人達から支持をうけ、それを稼ぎにしている為、不特定多数の人から色々と意見をうけることは致し方がないし、街を気軽に歩けなくなるのは芸能人になることとの等価交換だ。そのリスクを知った上でテラハに出た上で、それに対するマインドセットをしていて欲しかった。
しかし、僕は芸能人になったことがないし、そういった批難を受け続けて、人前に出る仕事をし続けた経験がないから、死ぬに至った思考も想像しかできないが、それでもこういった批難をしてきた人にはその権利がないのだから気にしないという生き方をして欲しかったと思うしかやりようがない。
今回の件で、あらゆることに対して批難をしてきた人々のマインドが変わることを切に願う。