Tomo

超有名進学校→関西トップ私大→大手企業という絵に描いたようなアラサーリーマン。東京在住。 ありのまま思ったことを、僕の脳みその中を記録として書き留めます。金銭全く興味なし、困ってもない為、ゼロ忖度で、真実を本音だけを記載していきます。コメント等頂ける方は皆大事にします。

オリジナルの人生哲学はあるか?

 生きていると結構色々な場面での決断を迫られる。そしてそれは決断する内容の大小に関わらずその人の人生哲学というか芯みたいなものが垣間見える部分となる。

 よく芯があるね、とか、一本筋が通っているね等と人が言うことがあるが、それはそういったその人となりの人生哲学を見た瞬間にそう思うのだ。ただ僕はその人生哲学、言わゆるその人の芯、というものは時に不安定でもいいと思っている。むしろ芯を強く持ちすぎて他人の意見に耳を傾けられなくなる、冷静に状況を判断できなくなってしまっては幅広い可能性や世界を見る上ではやっかいだとも思う。意識をして自分の人生哲学を作るというよりは、それまでの人生からその人が学んだり、感じ取ったものから、勝手に形作られていくという認識が一番正しいかと思う。

 ある種の決断をする時には本当に自分自身のコアの部分での哲学で対応する以外ないという瞬間が人生の節目節目には必ずあり、その時、本当の自分の哲学が浮き彫りになってくる。

 例えば僕は大学受験では第一志望の大学に浪人した結果落ちた。そして違う大学に入り、実は仮面浪人をして再度受験をしてトライした。また、本当に好きになった人が酔いつぶれて、きっとホテルまで連れて行こうと思えば連れていけた日にタクシーで帰らせた。友達の誕生日には彼女にもした事がないようなお金を費やしたり、女友達が落ち込んでいた時には朝まで付き合って酒をのんだ。友達から夜中に呼び出され、朝1で会議があったけど、そいつを思いはかって夜中の飲み会に付き合ったりもする。

 そういった大小関わらない些細な決断の瞬間に、自分自身の人生哲学に基づいて行動する事を、結構気づかずに、行っている。

 そしてそういった決断をしてきた上で僕が思うことは、今その過去を振り返った時に今の自分がその時の自分を見て、かっこいいと思えるかどうかが重要だと凄く思う。未来で振り返った時にその時の自分の決断にある種の誇り、矜持を持てるかどうかが大きな物差しになる。

 べろべろに酔っ払った失恋しためちゃくちゃ可愛い女友達。手を出そうと思えば出せる、でもここで手を出すという選択をすると、未来の俺はその時の俺を許せない、かっこ悪いと思う。誰にも言わずに仮面浪人をするという決断は、周りから見ると馬鹿げているし大学1年生を謳歌した方がいいに決まっている、でも未来の俺はその選択を後悔するだろうし、実際今振り返ると、当時の自分を褒めたくなる。なんてガッツのある奴なんだと。

 つまり自分自身の人生哲学というのは、未来の自分が過去を振り勝った時に、かっこいいとか、誇りに思える選択をする、ということに言い換えられるのだ。

 

 

スパークル

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新たな快楽物質を探し求める旅

 よく子供の時の経験とかって思い返すと大した事ないのに、当時はすごい事に思えていた事や羨ましかった事等があって、若い時に経験することは全てが初体験の連続で凄く毎日が濃く感じる。初めての海外旅行とか、初めての恋愛とか、そういった初めてがつけた体験って、脳からドーパミンが大量に出て、鮮明に記憶に残り、その瞬間が一生その人の記憶に残ったりする。

 年を重ねるにつれて、楽しくないな~とか、昔していた事を同じようにしてみても虚しくなったり、つまらないと感じることが多くなってくる。昔はとっかえひっかえ女遊びや男遊びをしていた人が大人になって落ち着くというのはよくある話で、それはとっかえひっかえ色んな異性と遊ぶということで得られる快楽物質ではもう満足できなくなってしまったからだ。

 僕もアラサーとして多くの事に対して初めての感動というものをしなくなってきたし、日々つまらないな~と思う回数が増えた。

 ただ、毎日の生活や、この80年足らずの短い人の人生の中で、出来ればつまらないな~と思う日々や時間は少ない方がいい。その為に人は、日々新たな快楽物質を探し求めて生きていく方が、密度の濃い人生が味わえると思う。

 よく多趣味な人がいて、ひとつの事に執着せず、多ジャンルの事に興味がある人がいる。そういった人はこの種の新たな快楽物質を常に求めている、人生を謳歌している人のように僕は思う。同じ事を繰り返していく事で、その中で新たな楽しみ方を知ることももちろんあるであろうが、それよりも今までに全く行ったことがない分野で小さい成功体験を積み重ねる方が脳みそが喜ぶような気がしている。

 つまり、毎日つまらないな~とか、人生楽しくないな~、と思う人は、今までにやったことがない事、新たな刺激を脳みそに与えてあげる事を意識して、生きてみることが大切だと思う。

 その為には新たな情報や、次に自分が体験できそうな新たなものを見つけ続ける作業も同時に必要になってくる。多くの分野にアンテナを張って情報を得るという行為も同様に大事だということだ。

 交友関係んもその中では大きな部分を占めると思う。昔みた動画でその人となりは身近な5人の友人から形成されるというスピーチがあった。例えば今周りにいる親友と呼べる5人の友達を全員変えてみたらどうだろう?新たな情報や背景を持った人物と置き換えることできっと、人生の新たな楽しみ方や生き方を知ることが、少なくともできるだろう。

 結論、毎日がつまらない、日々の生活に刺激がない、という悩みを抱える人は、①初体験をすることで新たな快楽物質を脳に与える②その為の手段として様々な分野に精通し、フットワークを軽くする③新たな友人関係を作りに行く。以上3点を意識していくことが重要だ。

 

 

打上花火 (DAOKO SOLO ver.)

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楽観的にいこうよ、色んなことを運命という都合のいい概念に委ねちゃえばいいじゃん

 人生生きていると、そりゃあ頭で分かっていても、物事を論理的に考えることが出来ても、負の感情に飲み込まれる時もあるだろう。それが脳みそが発達して思考が地球上で一番ある我々人類の特権でもある訳だ。

 例えば、元カレ元カノが忘れられないだったり、大学受験・就活に失敗しただったり、婚活がうまくいかないだったり、失恋をしたり、心をどうしても負という方向の針から陽に持っていくことが難しい局面・瞬間が人生にはある。

 そういった時、僕は普段はかなりロジカルで物事を論理的に捉えるが、そういった瞬間には思い切って感覚に従う、というように切り替える事がある。自分の率直な感覚に委ねてみて、負の感情が湧いて出た時はそれこそもっと負になるぐらいの落ちる曲をきいたり、泣けるならば泣いてしまうぐらいその出来事をマイナスに捉えてみて、一度どん底まで落ちてみたりする。そうすると、案外どん底まで落ちていく自分が気持ちよくなったりするし、妙に客観的に自分を見られるようになったり、ばかばかしくなったりするもんだ。

 そして、究極の思考としては、これって運命だから、と言って片付けてしまう。運命だから自分の意志とか関係ないから、生まれた時から決まってた運命だから、と逃げてしまっても全然いいんだよ。そうすると予定調和的に、それはその出来事からの逃げだとか、ちゃんと向き合って反省して次に生かせとか、いうありきたりな人が出てくるだろう。つまらない。そんなの予定調和なんだよ、そんなことは分かってる。そういう事じゃない、今重要なのは、感覚に委ねるという瞬間が人間なんだからあってもいいよということ。いいか?別に宇宙が生まれた意味、地球が生まれた意味、ましてや人間が地球上で何をしようがぶっちゃけ何も意味なんてない、全部運命で生まれる前から全ての物事の進み方は決まってるんだよ。

 そんな風に物事考えて、楽観的に人生の負の局面なんか、ばかにしながら、もてあそびながら、それすらも楽しみながら生きて行こうぜ。

 

風の日

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過去、現在、未来の捉え方

 30年近く経つと、人生でも色々な種類の過去ができる。嫌な過去、思い出したくない過去、思い出すだけでキラキラする過去、またあの時に戻りたいと思う過去。成功、挫折、失恋、別れ、等絶対に忘れられない脳に染み付いた過去という、自分だけの思い出が必ず人にはついてくる。

 そういった過去の捉え方と、そして今という時間、これから先の未来という時間、それぞれをどのように捉えていくかを考えてみたいと思う。

 個人的に過去を思い出して浸ったり、過去を思い出しながら飲む酒や、寝落ちするという、要するに懐古趣味的なものは僕は無駄ではないと思う。30年間生きてきたんだ、1歳の子には出来ない、30歳にしか決して出来ない、それもその当人しか経験できない人生のワンページを思い出すわけだから、それはそこらの映画を見返すよりよっぽど楽しいはずだし、最高級の娯楽とも言える。

 ただし注意したいのは、あまりにも過去に囚われすぎる事は危険だ。例えるならそれは、おもしろい映画やTV番組を何度も何度も見返すという作業に等しい。映画や本等は年齢によって見返すと為になったり、興味深いポイントが違って見えることがよくある。そういった観点からたまに見返してみる、というぐらいの距離の置き方が過去にも言えると思う。同じ作品をず~と毎日み続ける=変えられない自分の過去をず~と引きづる、繰り返し見返して過去に囚われる、のは時間の無駄だ。要はそこから学び取れるものがないものを繰り返し見ているという時間の浪費をしている。しょうもないYOUTUBE動画をザッピングしている時の、あの浪費感に近いだろう。

 そして最近アラサーになった僕が感じることは、実は、今というタイミング、現在というタイミングが実は一番キラキラしている時間であるということ。どういうことかというと、今振り返ると、思い出す記憶の中にあるあのキラキラした戻りたくなるような過去も当時は今でいう現在という時だったわけだ、過去に思い出す自分の姿は、その当時の一瞬一瞬の今である、ということを、分かってはいたがここに来て痛烈に実感している。

 その昔おもしろくないな~と思いながら生きていたあの時間も、今振り返るとその状況はすごくキラキラしているように見える。そう現在という今の時間こそがその人の人生で一番キラキラしているのだ。

 そして未来。僕の未来の捉え方はそのキラキラした現在の集合体。未来に関しては僕はものすごくbrightな明るいものだと捉えていて、かつそう理想を思い描きながら未来に進んでいくべきだと思う。高校時代、受験戦争を浪人時代を含め4年間も頑張って耐えられたのは、東京の大学にいけばものすごく楽しいキャンパスライフが送れると夢のような未来を思い描いていたからだ。この夢のような未来を思い描くという行為は人にとって大きなモチベーション、現在のその人のキラメキを支える養分になると思う。

 まとめると、過去はたまに見返す映画の感覚で振り返り教訓を得る、現在は人生で一番キラキラしている時間だと考え大いにキラメク、未来は現在をキラめかせるための栄養素でありモチベーターである、という考え方になる。

 

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いつまで無駄な情報を得る事に時間を費やすの?

 最近すごく感じることは、自分にとって完全に無駄であり、ただの時間の浪費に他ならない情報を得る為に、一体どれだけの時間を捨ててしまっているのかということ。

 もちろん無駄なことは何一つない、自分に関係ないと思っている情報の中から閃いて、新たなものを生み出すとか、そういうのはあるかも知れない。ただし、本当に無駄な情報というか、全くの人生の無駄な時間の使い方をしてしまっている瞬間があると思う。

 ただ実はそれをした後、もしくはしている最中に無駄だと既に気づいている時の方が僕は多い。でも惰性で、慣性の法則の如く、分かっていてそのまま無駄な時間を浪費していくことがある。

 そう例えば、youtube等は自分が見ようと思っていた動画を見ると下におススメが出てきてそれを無限にクリックし続けてしまうという現象が起る。昔からある古典的な人間の心理をついているが、目の前にあるものに手をだしてしまう、慣性の法則のように分かっていても止まることなく目の前のものを続けてしまう、という状況を生みやすい環境だ。また、はてなブログのトップページやyahooのトップページや、民放にも言えるが、何となく開いたら出てくる受動的に得た情報も、本当に自分に必要のないものが多く混ざっている。もちろん、自分が興味を持ちその中から有意義な記事や情報をとっているからページを開く、TVを見るというのはもちろんあるだろうし、必要な作業だ。

 ただ僕が言いたいのはその後の、自分が無駄だと分かっている情報にまで、心理をうまくつかれて手を伸ばし、浪費している時間があるよという懸念だ。

 もうこれを防ぐには、意識を変えるしかないのだが、こういったことを念頭に、世の中には本当にくそみたいな情報が至るところに潜んでいて、そのページやその情報を取る為に費やした時間は地雷だと考えた方がいい。

 人生の一部を奪われているという感覚を持つのが一番正しいマインドセットかも知れない。

 自分の人生の大切な時間を簡単に人に奪われるな!

 

Thankful (feat. BOKI)

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プラス思考という人類最大の武器をフル活用しよう

 明日から仕事再開、もしくは夏休み終わりという人も多いだろう。そんな時期に少し思った所があるので題名の通り、プラス思考について語りたいと思う。

 今年の夏休みはどうだっただろうか?まあ7割方例年よりもつまらなかった、もしくは外出が減って、夏に出来る娯楽が出来なかった、等と不平不満を口にするのではないだろうか。

 人類はこの地球上でもっとも脳が発達し、思考が他の生物を圧倒し、絶対的生物界の王者として現在地球に君臨している。その思考の中でも、最大の武器であるプラスに物事をとらえられるという思考をなぜ皆軽視ひ、利用しないのだろう。

今年の夏はコロナ渦でつまらなかった、10代20代の貴重な1つの夏なのに、等という思考ではなく、10代20代という血気盛んな最も遊びたい盛りの1つの夏に、コロナ渦で過ごす夏を過ごせた。こんな経験を10代20代で経験した大人は今の社会には少ないだろう。こんな閉塞的な1年間をこれだけ有意義に過ごすことを達成できた、コロナ後の人生はコロナを若い時に受けなかった世代を圧倒して満喫していくことができる、ラッキー!っと思えばいい。

 そう世の中全て見方を変えれば表裏一体、全ての裏を表に無理やり捻じ曲げられるし、全てをプラス思考で捉えられれば、きっとそこまで負の感情を全面的に受け付けることも少なくなるだろう。

 ただし、ここで注意が必要なのは、プラス思考に持っていく時の自己暗示力だ。周りの意見や報道、他の情報や一般常識が耳に入り、自分の中で作り上げたロジックでのプラス思考がくじけそうになる場合がある。また、あくまで論理的にはプラス思考にできても、心底そう思えずに付け焼刃の対処方法になることも少なくない。

 そうこれに対しても見方を変えればいい。プラス思考にむりやり物事をとらえようとする→自己暗示能力が足りずにやはりプラス思考で考えられない→頑張ってプラス思考で物事を捉えようとする→それを頑張っている時点でプラス思考になれなくても、自己暗示能力が上がっている と考えることができる。

 つまりだ、どんな意見が合っても、自分が考えるプラス思考があれば、たとえそれを心底信じれなくても、次は自己暗示能力の訓練という風に見方を変えるという、2段構えの無敵の思考だ。

 結論、物事をプラス思考で考えた時点で勝ちが確定する。

 

BLUE

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この時期だからこそ少し戦争について考えようよ

 昨日8月15日は終戦記念日だった。僕たちに日本人にとってはこのお盆の終わり、関西人にとっては京都の大文字焼き、子供にとっては夏休み、そういった少しノスタルジックな季節にあるこの終戦記念日という日。

 僕たち平成生まれの人間は、第2次世界大戦を知る祖父母を持つ最後の世代である。

なので個人的に大戦について伝え聞いた話と、そこから考える僕の戦争に対する認識を述べたいと思う。

 戦争について初めて記憶に残る形で話を聞いたのは、小学校の時に広島に行った修学旅行での話だ。内容はうる覚えだが、ぴかっと一瞬光った瞬間、次の瞬間には焼野原だったという鮮烈な記憶を話してくれたことを覚えている。そして何より強烈に僕が記憶に残っているのは、その話者が言った、今日は夜眠れないだろう、と最後に言った言葉だった。当時恐らく70代ぐらいのその人は、その日に記憶を思い出し僕たちに話してくれたが、そのせいでその日は眠れない程、それ程の出来事だったという事。

 次に僕のおばあちゃん、大阪から疎開して田舎へ逃げのびはしたが、当時は食べるものが全くなく、ニキビができる人等いないかったと言っていた。だからか今でもずっと物を粗末に扱わない、ボロボロになるまで使い切る。そういった背景があったからだろう。おじいちゃんは戦争に行きたくないから死に物狂いで勉強をして、造船をする仕事についたと聞いている。

 また、小学校の時に通った書道教室のおじいちゃんに、戦争で死にかけたことある?、ときいたら、田んぼ道で戦闘機から銃を撃たれたが、奇跡的に目の前で全てはずれて生き延びた、と言っていた。ぞっとする経験。

 最後に、僕が留学先のアメリカで、ちょうどその時が8月15日だった為、当時65歳ぐらいのホストファーザーに、今日は日本では終戦記念日なんだけど知ってる?、と聞いたら、知らなかったよ戦争が始まった日なら覚えているけど、と言った。そう日本人は戦争が終わった日を意識するが、彼は戦争が開始したパールハーバーの日を意識していた。

 振り返ると僕の人生の中で、そういった直接話を聞いた戦争についての話がある。こういった話を直接聞ける最後になるだろう今の若者が、戦争を直接体験していない若者が、どういった思考で戦争を考えているのかを次に述べていきたい。

 僕らが聞けるこういった伝え聞いた話や、本で学ぶ歴史、歴史をかみ砕いて先生から聞いた解説から色々な事を知ることは出来るし、ある意味正しく当時の状況を理解できる。むしろ当時の人よりも冷静に歴史を知り理解することが出来る。正し、全て実体験ではない。以前に僕が述べたように、人は自分で体験した以外の出来事は、それまでの自分の経験+想像力によって、疑似体験もしくは脳で理解するという事までしか出来ない。よく戦争など2度と起こしていけない、や当時の日本は狂っていた、~国が悪い、ナチスは~だ、等と当時の事を冷静な状態で分析した結果、平和な安全な状況下で人は判断し認識している人が多い。でも実際本当に当時の状況下で、同じ人物の地位で、当時の空気を吸った上で意識したらどうだろうか。あくまで想像力という想像でしか追いつきはしないが、当時の人が誤りだったと断言できるだろうか?人間そんなに大きく中身や思考が変わる訳はなし、もちろん当たり前のように死にたくないし、戦火に巻き込まれたくないし、今のように平和に日々を暮らせればいいなんて、当たり前に思っていたはず。にも拘わらず、戦争に走らざるを得ない状況、空気感だったという事を慮れば、誰も誤っていなかったと僕は思う。

じゃあこの先の未来、人々が懸念することは一つ、この戦争の体験をリアルで持っていた人、そしてその人から直接聞けた人、次からは紙面のみから情報としてのみ戦争をしる人、へと戦争体験という情報の伝わり方が変化していくということにある。リアルに人から聞く話と、情報を取るだけの伝達とでの差異は、想像力をよりリアルにすることが出来るか、という点にあると思う。実体験があるが最上位の情報のインプット方法だとすれば、そして紙面の情報のみになると、疑似体験をすること、要は想像して脳でそれを思い描き深く心の奥底に記憶が残る、ということが薄くなるように僕は思う。だからこそ、これからはよりそういった歴史に関する映画や小説、ドキュメンタリー等、より実体験に近い形での伝聞がされるべきだし、教育によって、正しくそういった情報を子供たちに伝えていく事に対して、これまで以上に熱心に取り組まなければならない。

痛みを知らない人々に、本当の痛みを言葉だけで体験させることは出来ない。それを前提として上で、戦争を知らない人が送ってきた人生の中と、その人が持つ想像力によって、痛みは体験できなくとも、少なくとも痛みを感じるというレベルにまで持っていければ、この先も平和的な解決によって、世界が進んでいくと信じたい。

 

Leningrad

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